マインドフルネス・カレッジで「マインドフルネス演習」担当の島田啓介さんから、寄稿いただきました。トラウマとマインドフルネスとの関係やコミュニティで学ぶ意味について書かれています。
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「4月開講のマインドフルネス・カレッジについて、学長の井上ウィマラさんと話すうちに気づいたことがある。彼もぼくも、一度は社会から離れたということだ。彼はミャンマーで出家し、テラワーダの僧侶となったことで。ぼくは、思春期に発症した精神疾患が悪化して長期入院したことで。そうして図らずも、外側から社会を見る機会に恵まれた。
ウィマラさんは修行とその後の遊行の過程で、ぼくは治療と回復の過程から、見えてきたことがある。心の多くの部分は、人間が育っていくにつれて社会的に作られるということだ。いったん社会の外に出ると、その仕組みを俯瞰的に観察することができる。ぼくらはその点で恵まれていたと言えるかもしれない(大変な苦労があったにしても)。
とりわけ最初に出会う他者である両親をはじめとする家族によって、子どもの内面は決定的な影響を受ける。多くが大人になって苦しむのは、そうして作られるトラウマが一因だ(むろんそれだけではなく、エゴの仕組みが関わっている)。
瞑想によってトラウマは表面化する。そこに苦がなかったわけではなく、マインドフルネスの光で照らし出され(意識化され)可視化されるのだ。程度の差はあれトラウマのない人はいない。ブッダが「一切皆苦」と言った根拠の一端はここにある。善とか悪ではなく、事実としてそれはあり、私たちにメッセージを発している。気づいてほしいと。そして目を向けてもらうのを待っている。
心の苦には社会の苦が映っている。内は外の写しだ。「心だけ」見ようとしても、すべては“Interbeing”(相即:相互存在)だから、そこに多くのもの、過去の出来事、今のつながりが見えてきてしまう。瞑想は、それらと自分との関係を積極的に見て、癒していくことだ。
そうするうちに“自分”の定義が変わってくる。私はあなたであり、社会であり、そこに起こる出来事なのだ。その逆も真である。マインドフルネス・ビレッジは、安心して心を開ける他者との出会いの中で、すべてのつながりに気づき、ともに取り組む場だ。社会の中ではなかなか難しい。だからいったん社会から距離を置き、俯瞰的に社会=心を見直す場が必要だ。
ビレッジは集合的な知と気づきと慈愛の共同体(村)である。瞑想とは「個」の檻から解き放たれて、自由に羽ばたく共同作業だ。そこに先達や専門的な経験を積んだ者がサポートすれば、実践と学びはますます深まる。自分がテーマを持って取り組むには、ある期間の専念がどうしても必要だ。真剣な人にはサポートも集まりやすい。この人を後押ししたいと、人の力やエネルギー注がれるだろう。
マインドフルネス・カレッジはそんな機会をふんだんに提供してくれる。講師たちは、様々な道を歩んでここにたどり着いた人たちだ。彼らは社会を外側から俯瞰する目を持ち、同時にはっきりした動機をもって具体的な行動を起こしている。講義だけでなく、そんな「あり方」は多くの人の良き見本になるだろう。
カレッジでの演習や概論、コミュニケーション論などの基礎科目は、心と社会に様々な角度から光を当てる。一人ひとりのテーマや問題が違っても、必ずヒットする光があるはずだ。そして心理学や医学、社会学などの諸学問、仏教や瞑想や世界中の精神的な伝統からの知見や実践法が、人類の遺産として、私たちの日常に新たに役立つ。もとはと言えば、そのために編み出された実践知なのだから。
とりわけカレッジが求めるのは、真剣に取り組む人だ。心を注いで学べば、必ず手ごたえがある。講師も刺激を受け、全力で応えたくなる。一人ひとりがその場を作り上げていくエネルギー源になるはずだ。スタッフ、講師、全員が春に向けて新しい扉を開けるのを楽しみにしている。 」
(島田啓介さん https://www.yutoriya.net/)